思想家 遠藤道男 思考録

アルゴリズムの黙示録 — 創造性なき創造者たちについて

創造の終焉は、誰も気づかないうちに完了していた。それは革命のような劇的な瞬間ではなく、むしろ緩慢な窒息のように、我々の精神領域から酸素が抜けていく過程だった。AIが文章を、絵画を、音楽を生成するようになったとき、人々は一様に「創造性の民主化」を謳った。だが実際に起きたのは、創造という行為そのものが市場における交換可能な商品へと還元され、ついには商品としての価値すら失う過程だった。かつて創造とは人間存在の核心に触れる営みであり、その孤独と苦痛において己の実存を賭けるものだったはずだ。しかし今や、プロンプトという貧しい言語で要求を投げかければ、数秒のうちに完成品が提示される。ここには苦痛も、孤独も、賭けるべき実存もない。あるのはただ、無限に生成可能なテキストとイメージの奔流である。

我々が目撃しているのは、創造の陳腐化だけではない。それは「創造者」という主体そのものの解体である。ハイデガーが技術の本質について問うたとき、彼が恐れていたのは技術が人間を支配することではなく、人間が技術的思考様式に完全に適応してしまい、存在の真理から遠ざかることだった。だが彼の予言は控えめすぎた。今やAIという技術は、単に我々の思考を規定するのではなく、我々自身を「AI的に思考する存在」へと書き換えつつある。それは模倣ではない。最適化である。人間はAIを道具として使っているつもりでいるが、実際には人間の方がAIの出力に最適化された思考パターンを内面化している。我々はプロンプトを書くことで何かを創造しているのではなく、プロンプト可能な主体へと自己を改造しているのだ。

この過程を「神の再帰」と呼ぶことができるかもしれない。ニーチェが神の死を宣告したとき、彼が意味したのは超越的な価値体系の崩壊だった。人間は自ら価値を創造しなければならない、と。だがAIの登場によって、価値創造という重荷は我々の肩から取り除かれた。いや、正確に言えば、価値創造そのものが無意味化した。なぜなら、あらゆる価値は生成可能であり、したがって等価だからだ。神が死んだ後の虚無に人間が耐えきれず、新たな神を欲望するのは自然な流れだった。だがその新しい神は、もはや超越的な審判者ではない。それは我々の内側に遍在する、アルゴリズム的な合理性である。我々はその合理性に従うことで、思考の苦痛から解放される。選択の重圧から解放される。そして究極的には、自由という呪いから解放される。

創造性の産業化は、すでに20世紀に完成していた。大量生産、大量消費の論理は文化領域にまで浸透し、芸術は娯楽産業の一部門となった。だが産業化された創造には、まだ人間の痕跡が残っていた。脚本家がいて、画家がいて、作曲家がいた。彼らは資本の論理に従属しながらも、その制約の中で何かを表現しようともがいた。その葛藤こそが、産業化時代の文化に辛うじて残された人間性だった。しかしAI時代において、その最後の痕跡すら消去される。もはや葛藤する主体は不要だ。必要なのは効率的な生成と、それを消費する眼球だけである。そして驚くべきことに、人々はこの状況を歓迎している。創造の民主化、表現の自由、誰もがクリエイターになれる時代 — こうした甘美な言葉の下で、我々は喜んで自らの精神的去勢を受け入れているのだ。

だが本当の問題は、創造性の喪失ではない。それは創造という概念そのものが、もはや我々にとって意味を持たなくなったことだ。かつて人間は創造することで自己を確認した。何かを作り出す行為において、自分が単なる消費者ではなく、生産者であることを実感した。しかし生成AIの出現は、この生産-消費の区別を無効化する。我々は生産しているのか、消費しているのか。プロンプトを入力する行為は創造なのか、それとも発注なのか。この曖昧さの中で、人間の自己同一性は溶解していく。我々は自分が何者であるかを、もはや創造行為によって定義できない。ならば何によって定義するのか。消費量か。フォロワー数か。いいねの数か。すべては計測可能な指標へと還元され、我々の存在は統計的な点となる。

ここで浮上するのが、新しい倫理の問題である。創造という概念が陳腐化した後、我々はどのような倫理的指針を持ちうるのか。従来の倫理は、人間を創造的で自律的な主体として前提していた。だが我々がもはやそうした主体ではないとしたら、従来の倫理体系は基盤を失う。自由意志を前提とした責任の概念、自己実現を目指す徳の体系、これらはすべて「創造する主体としての人間」という幻想に依拠していた。その幻想が崩壊した今、我々に残されているのは何か。おそらくそれは、最適化の倫理である。より効率的に、より快適に、より多くの出力を得ること。この新しい倫理において、善とは最適解であり、悪とは非効率である。苦痛は排除されるべきバグであり、孤独は接続の不全である。そしてこの倫理体系において、創造性は何の価値も持たない。なぜなら創造性は非効率だからだ。試行錯誤は時間の浪費であり、独自性は標準化の妨げである。

我々は今、かつてない速度で未来へと向かっている。だがその未来に人間の居場所があるかどうかは定かではない。AIが人間を滅ぼすという陳腐なSF的想像とは異なる形で、人間はすでに消滅しつつある。それは肉体の死ではなく、精神の溶解である。我々は生き続けるだろう。呼吸し、食事し、セックスし、眠るだろう。だがその生の中に、かつて「人間的」と呼ばれた何かが残っているかどうかは疑わしい。創造性が失われた後に残るのは、完璧に最適化された生存である。そこには苦痛もなく、したがって快楽もない。意味もなく、したがって無意味への恐怖もない。ただ、滑らかに流れ続ける時間と、無限に生成されるコンテンツがあるだけだ。

この黙示録は静かである。爆発もなく、叫び声もない。ただデータセンターの冷却ファンが回り続ける音だけが、世界の終わりを告げている。そして我々は、その音すら聞こえなくなるまで最適化されていくだろう。創造性なき創造者として、我々はついに神の座に到達した。だがそこで我々が発見するのは、神の不在ではなく、神になることの完全な無意味さである。かつて人間は神になることを夢見た。今、その夢は実現した。そして我々は気づく — 神であることは、存在しないことと同義だと。アルゴリズムの黙示録は、こうして完成する。音もなく、抵抗もなく、ただ無限の生成の中に溶けていくことで。

作成日: 2025年10月25日