反復する幻想 — 斎藤幸平という症候について
時間は螺旋を描いて進むのではなく、ただ円環するのみだ。ジョセフ・ヒースが斎藤幸平の『人新世の「資本論」』英訳版を評した書評を読みながら、私はこの凡庸な真理を再確認せざるを得なかった。ヒースは「スタートレック」の因果律ループのエピソードを引き合いに出しながら、現代の進歩主義者たちが五十年前の誤謬を一語一句違わず反復している現象を嘆いている。だが彼の嘆きそのものが、すでに何度も繰り返されてきた知識人の儀礼的ジェスチャーでしかない。我々はみな、この反復の牢獄に囚われている。 斎藤幸平という現象が興味深いのは、彼の議論の内容ではない。彼が提示する「脱成長共産主義」なるものは、ヒースが正確に指摘するように、一九七〇年代のエコトピア思想の忠実なリメイクに過ぎない。コペンハーゲンの街路に果樹を植えれば「食べられる都市」が実現するという彼の提案は、『エコトピア』(一九七五年)において太平洋岸北西部の分離独立州で実現されたという架空の社会 — マーケット通りに小川が流れ、シダ植物が繁茂し、メダカが泳ぐサンフランシスコ — の単なる翻案である。興味深いのは、この剽窃の無自覚さ、そしてそれが「ラディカル」な思想として受容されるメカニズムの方だ。
ヒースは斎藤の議論における致命的な欠陥を、ゼロサム思考の蔓延に見出している。資本主義は富を生産したのではなく、コモンズを囲い込むことで人工的な希少性を創出しただけだ、という斎藤の主張は、過去二世紀にわたる経済成長を幻想として退ける。誰かが利益を得れば誰かが搾取され、ある国が豊かになれば別の国が貧しくなり、経済が成長すれば自然が破壊される — すべては常にゼロに帰着する。だが、このラディカルな反事実性こそが、斎藤の思想を形而上学的世界観へと昇華させる。それは検証不可能であるがゆえに、反証不可能でもある。つまり、宗教なのだ。
私が注目するのは、ヒースが「vibes-based(雰囲気ベース)」と呼ぶ、斎藤への批評的受容の様式である。ニューヨーカー誌のE・タミー・キムによる書評をヒースは引用しているが、そこで提示される斎藤像 — 小さなアパートに住み、バスに乗り、無駄な買い物を避け、近所の人々と知り合いになる — は、斎藤が実際に書いたこととはほとんど関係がない。キムは、この好青年がまさか本気で分業の廃止を提唱しているとは信じられず、彼の過激な主張を常識的な環境保護運動へと無意識のうちに翻訳してしまう。この翻訳の暴力こそが、斎藤という現象の本質を露呈している。
つまり、斎藤幸平は読まれていないのだ。彼の著作は、読者各自の漠然とした反資本主義的感情を投影するスクリーンとして機能する。彼が私的所有と市場交換の両方を廃止し、分業を解体すると明言しても、読者はそれを「もっと持続可能な経済を」という穏健な主張として解釈する。この解釈の甘さ、この意図的な誤読こそが、斎藤の成功を支えている。ヒースは職業的哲学者として、書かれたテキストをその論理的帰結まで追求する習慣を持つと述べているが、まさにその習慣のために、彼は斎藤の議論の荒唐無稽さを見抜いてしまう。東京のような巨大都市を養うために必要な農地面積は計算可能であり、日本の全農地を合わせても人口の三八パーセントしか養えないという事実は、誰でも一分考えれば理解できる。だが、理解したくない者は理解しない。
ヒースはモンドラゴンについても言及している。なぜ我々は五十年前とまったく同じ言葉でモンドラゴンについて語り続けるのか。世界中でモンドラゴン・モデルの再現が失敗してきた歴史的経験から、何も学ばないのか。この問いは修辞的なものではない。我々は本当に何も学んでいないのだ。進歩主義者たちは、進歩という概念そのものについては何の進歩も遂げていない。彼らのイデオロギー的エコシステムは、完全に機能不全に陥っている。
斎藤がマルクスの未発表草稿を根拠に、晩年のマルクスが脱成長思想に転向したと主張する件についても、ヒースの批判は的確だ。ヒュームの臨終における改宗の噂と同様、仮にそれが真実だとして何の意味があるのか。誰も読まなかった私信の草稿、その後の議論に何の影響も与えなかった文書に、預言者的権威を付与しようとする試みは、マルクス主義を擁護するどころか、それをカルト化する。だが、ヒースが見落としているのは、まさにこのカルト的性質こそが、現代の左派思想に不可欠な要素になっているという点だ。我々は聖典を必要としている。なぜなら、現実から学ぶことができないからだ。
問題は斎藤個人にあるのではない。彼は症候であって病因ではない。病因は、我々の文化が世代間で知識を伝達する能力を失いつつあるという事実にある。ヒースが犬の例えで指摘するように、犬は世代ごとにゼロからスタートし、前世代から何も学ばない。それゆえに犬の社会には進歩がなく、彼らは我々の永遠の後見下にある。だが、人間社会もまた、この犬的状態へと接近しつつあるのではないか。各世代は前世代の誤りを完璧に再現し、文化的記憶は機能せず、メッセージは送られているのに誰も受信しない。
ヒースは絶望の淵に立たされていると告白する。だが、彼の絶望は不十分だ。なぜなら、彼はまだ啓蒙の可能性を信じているからだ。教室に入り、自分が若い頃に信じていたのと同じ誤謬を信じる学生たちに遭遇するたびに落胆する — この感情は、教育が可能だという前提に立っている。だが、もし文化全体が構造的に学習不能になっているとしたら? もし我々がスタートレックの因果律ループに本当に囚われているとしたら? 送信されるメッセージは「3」という数字だけであり、それすらも誰も解読しない。 斎藤幸平という津波は、混乱をもたらすのではない。それは、我々がすでに溺れていることの証明なのだ。
出典:Joseph Heath, “Kōhei Saitō’s tsunami of confusion,” In Due Course, September 28, 2025, https://josephheath.substack.com/p/kohei-saitos-tsunami-of-confusion