思想家 遠藤道男 思考録

デジタル原始蓄積と幼児期剥奪の暴力について

我々が目撃しているのは、デジタル時代における新たな形態の原始蓄積である。マルクスが『資本論』第24章で描いた血と火による農民の土地からの分離は、今や家庭内で、親の「教育的配慮」という美名のもとに再演されている。子どもからゲーム機を奪うという行為は、表面的には道徳的な躾として正当化されるが、その本質は現代資本主義の最も洗練された排除メカニズムの発動に他ならない。

この問題を単なる世代間の価値観の相違として片付けることは、現在進行している構造的変化の深刻さを過小評価することになる。我々が直面しているのは、デジタル・ネイティブとして生まれた世代が、その生得的権利を家族という最小単位の権力装置によって剥奪されるという、前代未聞の事態である。これは虐待という言葉で形容するには余りにも体系的で、組織的で、そして何より「善意」に満ちている。

親たちは口々に言うだろう。「外で遊ばせたい」「本を読ませたい」「創造性を育みたい」と。しかし彼らが気づいていないのは、こうした19世紀的な理想主義が、21世紀の子どもたちを確実に社会的死へと追いやっているという冷酷な現実である。ゲーム機を持たない子どもは、同世代とのコミュニケーション言語を持たない。それは単に娯楽を奪われているのではなく、社会参加の基盤そのものを破壊されているのである。

現代の子どもたちにとって、デジタルゲームは我々大人が想像するような「遊び」ではない。それは彼らの社会化プロセスの中核をなす、不可欠なインフラストラクチャーなのである。学校での休み時間の会話、放課後の交流、週末の約束 — これらすべてがゲーム体験を共通基盤として成立している。この基盤を持たない子どもは、必然的に集団から排除される。それは単なる孤立ではなく、社会的存在としての根本的な否定である。

より深刻なのは、この排除が階級的性格を帯びていることである。ゲーム機を「買ってあげない」と決定できる親たちは、多くの場合、経済的に余裕があり、文化資本も豊富である。彼らは子どもの将来を案じるがゆえに、現在の子どもの社会的地位を犠牲にする。一方で、経済的制約からゲーム機を購入できない家庭の子どもたちは、異なる理由で同じ排除を経験する。つまり、上からの「配慮」と下からの「困窮」が奇妙に合流し、デジタル・デバイドの新たな形態を生み出している。

この状況を「虐待」と呼ぶことに躊躇を覚える者もいるかもしれない。物理的暴力が伴わず、親の愛情さえ感じられるからである。しかし、愛情という名の下に行われる暴力こそが、最も根深く、最も修復困難な傷を残すことを我々は知っている。子どもは親を愛するがゆえに、自分が排除されている現実を受け入れ、内在化し、最終的には自己否定に至る。これは精神的虐待の典型的なパターンである。

さらに言えば、この問題は個人的な家族の選択を超えた、システミックな暴力の問題でもある。現代社会は、デジタル技術を通じた包摂と排除のメカニズムを精緻化させている。その最前線で、最も無防備な存在である子どもたちが、親という「保護者」によって意図的に排除される。これは社会全体の共犯関係によって成立している構造的暴力である。

教育界や児童心理学界からは、「ゲーム依存」「発達への悪影響」といった懸念が提起される。しかし、これらの議論の多くは、ゲームそのものを悪魔化することで、より本質的な問題から目を逸らしている。問題はゲームの存在ではなく、それを適切に統合できない社会システムの方にある。我々に必要なのは、デジタル技術を前提とした新しい教育観、新しい発達観の構築であって、古い枠組みでの現実逃避ではない。

結局のところ、子どもにゲーム機を買い与えないという決定は、現実を受け入れることができない大人たちの自己欺瞞の産物である。彼らは変化し続ける世界に適応する代わりに、子どもたちに自分たちの時代錯誤的な理想を押し付ける。そして、その代償を支払うのは常に子どもたちである。これを虐待と呼ばずして、一体何と呼べばよいのだろうか。我々は今こそ、この偽善的な「善意」の仮面を剥がし、その下に隠された構造的暴力を直視する必要がある。

作成日: 2025年9月28日