無垢という商品 — 奈良美智と後期資本主義の憂鬱
奈良美智の描く少女たちは、その巨大な瞳で何を見つめているのだろうか。彼女たちの視線は、鑑賞者の良心に向けられているように見えて、実のところ、オークションハウスの天井を見上げているのかもしれない。2019年、サザビーズ香港で彼の作品が約28億円で落札されたとき、あの無垢な表情は、後期資本主義が最も得意とする商品 — つまり「純粋性」そのものの完璧な体現となった。
原発事故後、奈良は反原発の立場を鮮明にし、チャリティー活動に身を投じた。メディアはこれを芸術家の良心として称賛した。だが、この「社会的責任」という身振りこそ、グローバル資本主義が最も洗練された形で展開する自己正当化のメカニズムではないか。ボードリヤールが『シミュラークルとシミュレーション』で示したように、現実の批判者を演じることによって、かえってその現実を強化する — これこそが後期資本主義の最も狡猾な戦略である。奈良の反原発アートは、まさにこの意味において、体制への批判を商品化し、抵抗を消費可能な記号へと変換する装置として機能している。
考えてみれば、奈良美智という現象そのものが、日本という国が世界市場に差し出した最も成功した文化商品の一つだった。カワイイ文化、オタク文化、そして3.11後の「傷ついた日本」というナラティブ — これらすべてを一身に体現する存在として、彼は国際アート市場において理想的な位置を占めることになった。彼の作品に頻出する孤独な少女像は、西洋のコレクターたちにとって、東洋の神秘と現代の疎外を同時に味わえる、きわめて都合の良い投資対象となった。無垢であることが最高の付加価値となる時代において、奈良の描く少女たちは、まさに純粋性の先物取引のようなものだ。
興味深いのは、奈良自身がこの構造を十分に理解しているように見えることだ。彼のインタビューや発言を読めば、市場に対する一定の距離感、あるいは皮肉すら感じ取れる。しかし、この自己意識こそが、さらなる市場価値を生み出している。「商業主義に批判的な商業アーティスト」という矛盾したポジションは、現代アート市場において最も高値で取引される商品カテゴリーの一つなのだ。システムを批判しながらシステムに依存する — この二重性は、もはや矛盾ではなく、グローバル資本主義の必須条件となっている。
福島の子どもたちのために描かれた作品も、結局はギャラリーの白い壁に掛けられ、適切な照明の下で、適切な価格をつけられることになる。これは奈良個人の問題ではない。むしろ、あらゆる批判的実践が市場に回収される現代において、純粋な抵抗など存在しないという事実の、最も洗練された証明なのだ。彼の作品が放つ「無垢」のオーラは、実のところ、高度に計算されたマーケティング戦略の産物であり、同時に、その計算を超えた何かを宿しているかのように振る舞うことで、さらなる価値を生み出している。
奈良美智現象とは、つまるところ、後期資本主義が到達した究極の皮肉の表現である。感情を商品化し、批判を投資対象に変え、純粋性を最も高額な贅沢品として流通させる。彼の描く少女たちの憂鬱な表情は、おそらく、自分たちが単なる金融資産として扱われることへの、言葉にならない悲しみなのかもしれない。あるいは、それすらも計算済みの演出なのか。この問いに答えはない。なぜなら、問い自体がすでに商品として流通し始めているからだ。