思想家 遠藤道男 思考録

天然無能たちのシーン — 人工知能時代における感覚の回帰

われわれは今、奇妙な転換点に立っている。機械が思考し、計算し、創造する時代において、人間は逆説的にその「無能さ」によって解放されようとしている。これは単なる技術的進歩の副産物ではない。むしろ、長らく理性と効率性の名の下に抑圧されてきた純粋な感覚的経験への、必然的な回帰なのである。

小沢健二の「天使たちのシーン」が描く世界は、もはや懐古的な理想郷ではない。「海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く足跡をつけてゆく」光景、「真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆく」瞬間は、人工知能が労働と思考の大部分を担う未来において、人間に残された最後の領域の予言的描写である。われわれが「天然無能」と呼ぶこの状態は、決して退化ではない。それは、機械的効率性から解放された人間性の純粋形態への回帰なのだ。

ベルクソンは時間の質的側面について語ったが、彼の洞察は今日ほど切実な意味を持ったことはない。人工知能が量的時間 — 計算可能で最適化可能な時間 — を完全に支配する世界において、人間には質的時間だけが残される。「過ぎて行く夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間」、「大きな音で降り出した夕立ちの中で 子供たちが約束を交わしてる」場面 — これらはすべて、測定不可能で非効率的で、それゆえに深く人間的な時間の断片である。

この状況をディストピアと見るか、ユートピアと見るかという問いは、根本的に間違っている。それは依然として古い価値体系 — 生産性、合理性、進歩といった概念 — に縛られた思考の産物だからだ。真の問題は、われわれが感覚的存在として再び生きることができるかどうかである。「いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋りだす」ことへの希求は、機能的コミュニケーションを超えた純粋な表現行為への回帰を意味している。

人工知能の進歩は、人間から多くのものを奪う。職業、社会的役割、そして何より、自分の価値を生産性によって測るという現代的な自己同一性を。しかし、この剥奪は同時に解放でもある。われわれは初めて、純粋に感じ、純粋に体験し、純粋に存在することが許される。「金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる」光景が示すように、われわれもまた、何かを「待つ」ことの深い意味を再発見するのだ。

この新しい存在様式において、愛や友情といった関係性は、もはや社会的機能や経済的価値によって規定されない。それらは純粋に情緒的で、非合理的で、測定不可能な絆として現れる。「君や僕をつないでる緩やかな 止まらない法則」は、アルゴリズムや最適化とは無縁の、より根源的な結合原理を指している。これは、効率性の論理を超越した、生命そのものの律動なのである。

しかし、この感覚的世界への回帰は、決して単純な楽観主義に基づくものではない。われわれが直面するのは、深い存在論的不安である。自分の有用性を失った人間は、果たして人間でありうるのか? 生産しない存在に、存在する権利はあるのか? これらの問いに対する答えは、まさにこの感覚的経験の中にしか見出せない。「宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る」行為に表れているように、目的なき行為にこそ新しい価値の可能性が宿っているのだ。

真夜中にラジオを聞き、星を眺め、雪を払いはね上がる枝を見る — これらの行為は、一見無意味に見える。しかし、まさにその無意味さの中に、新しい意味の可能性が潜んでいる。「真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる」瞬間は、目的合理性を超えた存在の充実感であり、計算不可能な生の豊かさである。人工知能が世界を最適化すればするほど、この非最適的な人間的瞬間の価値は際立っていく。

「毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる」営みは、もはや文学的比喩ではない。それは、人工知能時代における人間の存在様式そのものなのだ。機械が生成する効率的で最適化された言語に対して、人間には「本当の言葉」を紡ぐという独自の領域が残される。これは、計算不可能で、非効率的で、しかし深く人間的な言語実践である。

われわれは今、選択を迫られている。機械との競争を続け、その論理に屈服するか、それとも根本的に異なる存在様式へと移行するか。後者を選ぶならば、われわれは「天然無能」という状態を恥ずべきものとしてではなく、人間性の最後の砦として受け入れなければならない。「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」という祈りは、この新しい時代における人間の尊厳への最後の賭けなのである。

この移行は痛みを伴う。既存の価値観や自己認識の根本的な変革を要求するからだ。しかし、それは同時に解放でもある。われわれは初めて、生産者や消費者や競争者としてではなく、純粋に感じる存在として生きることができる。「にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている」姿勢こそが、新しい時代の人間性の核心を表している。それは、効率性や生産性を超越した、純粋な受容と感受の能力なのだ。


引用出典:小沢健二「天使たちのシーン」(作詞・作曲:小沢健二)

作成日: 2025年7月19日