アート — あるいは美的体験という名の自己欺瞞について
美術館という空間に足を踏み入れる瞬間、人々は自らが高尚な存在になったかのような錯覚に陥る。白い壁、計算された照明、そして作品と観客の間に設けられた物理的距離 — これらすべてが、芸術作品なるものに神聖性を付与するための装置として機能している。しかし、この聖域めいた空間で実際に起きているのは、きわめて世俗的な、そしてグロテスクなまでに資本主義的な取引にほかならない。作品の前で思索にふけるポーズをとる観客たちは、自分たちが巨大な搾取システムの共犯者であることに気づいていない。いや、むしろ気づかないふりをしているのだろう。なぜなら、その欺瞞こそが彼らの文化的優越感を支える基盤だからだ。
現代アートの世界では、作品の制作者として名を連ねるアーティストの多くが、実際には一筆も画布に触れていない。彼らは「コンセプト」を提供し、実際の制作は名もなきアシスタントたちに委ねられる。これらのアシスタントたち — 多くは美術大学を卒業したばかりの若者たち — は、最低賃金に近い報酬で、時には無給のインターンとして、有名アーティストの工房で労働力を提供する。彼らは将来への投資だと自分に言い聞かせながら、実際には搾取されているに過ぎない。アーティストの署名がなされた瞬間、彼らの労働は完全に不可視化され、作品は数百万、時には数億円という価格で取引される。この価格と実際の制作者が受け取る報酬との間に横たわる深淵は、まさに現代社会における労働と価値の乖離を象徴している。
さらに皮肉なのは、こうした搾取構造を批判的に扱うことを標榜する作品もまた、同じシステムの中で流通し、消費されていることだ。社会的不正義を告発するインスタレーション、労働者の権利を主張するパフォーマンス、資本主義を批判するビデオアート — これらはすべて、最終的には富裕層のコレクションに収まり、彼らの文化資本を増大させる道具となる。批判的芸術という名の商品は、むしろシステムの正当性を補強する。なぜなら、システムがこうした批判を許容し、さらにはそれを商品化できることこそが、その柔軟性と強靭さの証明となるからだ。
ドゥルーズは『千のプラトー』において、資本主義を「脱領土化」と「再領土化」の絶え間ない運動として描いた。アートの世界はまさにこの運動の最前線である。既存の価値体系を破壊すると称する前衛的な作品は、瞬時に市場によって捕獲され、新たな商品カテゴリーとして再領土化される。反逆は様式となり、批判は装飾となる。そして、この過程に関わるすべての人間 — アーティスト、キュレーター、批評家、コレクター、そして観客 — は、この巨大な価値変換装置の歯車として機能する。
美術館やギャラリーを訪れる人々は、自分たちが文化的に洗練された存在であることを確認したがっている。彼らは作品の前で適切な時間立ち止まり、思慮深げな表情を浮かべ、時にはカタログに書かれた難解な解説文を読み上げる。しかし、彼らが本当に見ているのは何なのか。それは、自分たちの階級的位置を確認し、文化資本を蓄積するための記号に過ぎない。芸術作品は、もはや美的体験の対象ではなく、社会的差異化の道具となっている。インスタグラムに投稿するための背景、教養をひけらかすための話題、自己のアイデンティティを構築するための素材 — これが現代における芸術の機能である。
最も滑稽なのは、こうした状況を誰もが薄々感じ取りながら、それでもなお芸術の自律性や精神性について語り続けることだ。批評家たちは相変わらず作品の「深い意味」を解読し、キュレーターは社会的メッセージを込めた展覧会を企画し、アーティストは自らの創造性について雄弁に語る。しかし、これらすべては、根本的な搾取構造を隠蔽するための煙幕に過ぎない。真実を直視することは、自らの存在基盤を脅かすことになるからだ。
アートフェアという現象は、この欺瞞の極致である。世界中から集まった富裕層が、まるでスーパーマーケットで商品を選ぶように作品を物色する。VIPプレビューでは、シャンパン片手に億単位の取引が行われる。その傍らでは、最低賃金で雇われたスタッフが作品の設置や撤去に汗を流している。この光景の中に、現代社会の本質がすべて凝縮されている。美と醜、聖と俗、精神と物質 — これらの二項対立は、もはや意味を持たない。すべては市場の論理に回収され、価格という単一の尺度に還元される。
それでもなお、人々は美術館に足を運び続ける。なぜか。それは、この幻想なしには生きていけないからだ。芸術が提供する超越の幻想、日常からの逃避の可能性、より高次の精神性への憧憬 — これらはすべて、現実の耐え難さを緩和するための鎮痛剤として機能する。人々は搾取されていることを知りながら、その搾取に積極的に参加する。なぜなら、そうすることで、自分たちもまた特別な存在であるという幻想を維持できるからだ。
結局のところ、アートという名の搾取システムは、私たちの社会そのものの縮図である。そこでは、創造性は商品となり、批判は装飾となり、美は投資対象となる。そして私たちは皆、このシステムの共犯者として、自らの搾取に加担し続ける。これが、芸術という崇高な理念の背後に隠された、あまりにも人間的な、あまりにも醜悪な真実である。しかし、この真実を認識したところで、何が変わるというのか。明日もまた、美術館には長蛇の列ができ、オークションでは記録的な落札価格が更新され、若いアーティストたちは成功を夢見て搾取され続けるだろう。これが、私たちが生きる世界の、逃れようのない現実なのだ。