「未来世紀アメリカ」 — あるいは選民たちの共食いについて
アメリカ合衆国という奇怪な実験は、その誕生から二世紀半を経て、ついに自らの尾を食らう蛇となった。この国家は建国当初から二つの矛盾した衝動を抱えていた — 啓蒙主義的理性への信仰と、千年王国的な宗教的熱狂である。長らくこの二つは奇妙な均衡を保ってきたが、21世紀に入ってからというもの、後者が前者を完全に飲み込みつつある。そして皮肉なことに、この宗教国家としての純化は、まさにその宗教的同盟者によって加速され、同時に致命的な毒を注入されているのだ。
イスラエルとアメリカの関係は、もはや通常の国家間関係の範疇では理解できない。それは宿主と寄生体の関係でもなければ、単純な主従関係でもない。むしろそれは、二つの終末論的ヴィジョンが絡み合い、互いを強化しながら破滅へと向かう、一種の形而上学的な心中と呼ぶべきものだ。福音派キリスト教徒たちは、イスラエルの存在を自らの終末論的シナリオの不可欠な要素として崇拝し、一方でイスラエルは、この宗教的熱狂を巧みに操作しながら、アメリカの理性的判断力を着実に蝕んでいく。
かつてアメリカが世界に対して行使していたソフトパワー — ハリウッド映画、ポップミュージック、民主主義の理念、科学技術への信仰 — は、今や内部から腐敗し、グロテスクな戯画と化している。映画産業は終末論的な暴力の賛美と、幼稚な善悪二元論の反復に堕し、科学は陰謀論と疑似科学に席巻され、民主主義は宗教的狂信者たちの多数決ゲームと化した。この文化的自殺は、単なる衰退ではない。それは意図的に、計画的に、そして不可逆的に進行している。
特に注目すべきは、この過程においてイスラエルが果たしている役割の巧妙さである。彼らは直接的な支配や露骨な操作を避け、むしろアメリカの宗教的妄想を増幅させることで、この巨大な国家を内側から空洞化させている。ガザでの虐殺を「自衛」と呼び、西岸での入植を「神の約束の成就」と称することで、彼らはアメリカの道徳的判断力を完全に麻痺させた。そしてアメリカ人たちは、自らの税金で賄われる爆弾が子供たちを引き裂く様を、神の御業として祝福するまでに至ったのだ。
この倒錯した関係性は、アメリカ社会そのものを奇形化させている。かつては多様性と寛容を誇った社会は、今や原理主義的な純化への衝動に取り憑かれている。世俗的な知識人や科学者は「グローバリスト」や「悪魔崇拝者」として糾弾され、理性的な議論は「信仰への攻撃」として封殺される。大学は反知性主義の牙城となり、裁判所は宗教法の執行機関と化し、議会は終末論的な預言の実現を目指す狂信者たちの集会場となった。
シオニズムとアメリカの福音派キリスト教の不気味な結婚は、両者にとって究極的には自滅的なものである。イスラエルは、アメリカという巨大な後ろ盾を失えば、中東という火薬庫の中で孤立し、福音派たちが夢見る「ハルマゲドン」は、彼ら自身の破滅として現実化するだろう。しかし、まさにこの自滅的な性格こそが、この関係性を一層強固なものにしている。なぜなら、両者とも本質的には現世の持続を望んでいないからだ。彼らが真に欲しているのは、壮大な終末、劇的な破滅、そして想像上の救済なのである。
ジャン・ボードリヤールは、湾岸戦争について「起こらなかった戦争」と評したが、現在進行中のアメリカの崩壊は、まさに「起こりすぎている終末」と呼ぶべきものだ。それはあまりにも露骨で、あまりにも予定調和的で、あまりにも自己成就的である。預言は、それを信じる者たちの手によって現実となり、破滅は、それを待ち望む者たちによってもたらされる。
かつてアメリカは、自らを「山の上の町」と称し、世界に対する道徳的模範となることを自負していた。しかし今や、この町は内部から炎上し、その煙は全世界を覆っている。そして最も皮肉なことに、この炎を最も熱心に煽っているのは、自らを神の選民と信じる者たちなのだ。彼らは、廃墟の上に新しいエルサレムが建設されることを夢見ながら、せっせと破壊の業に励んでいる。
「未来世紀アメリカ」 — それは、もはや国家と呼ぶべきものですらないかもしれない。それは巨大な宗教的テーマパーク、終末論的な劇場、自己破壊の壮大な実験場となるだろう。そこでは、理性は完全に追放され、科学は呪術に取って代わられ、民主主義は神権政治に道を譲る。そして、この grotesque な変容を、世界は呆然と、しかし魅了されながら見守ることになるだろう。なぜなら、それは単なる一国家の崩壊ではなく、近代という理念そのものの最期の痙攣だからである。
この過程を止める方法はあるのか? おそらくない。なぜなら、それを望む者たちこそが、最も熱心にその実現に向けて働いているからだ。我々にできることは、せいぜいこの壮大な茶番劇を冷笑的に観察し、人類の愚かさの新たな証拠として記録することくらいだろう。そして願わくば、次の文明 — もし存在するとすれば — が、我々の過ちから何かを学んでくれることを期待するしかない。