創造力という名の破壊衝動 — 時間の暴力性について
創造力について語ることは、必然的に暴力について語ることである。なぜなら、創造とは既存の秩序に対する根本的な否定であり、過去の自分という存在の抹殺だからだ。この命題は、一見すると逆説的に響くかもしれない。創造力といえば、われわれは通常、生産的で建設的な力を想像する。しかし、そうした牧歌的な理解こそが、創造力の真の本質を隠蔽している。創造とは、本来的に破壊的な行為なのである。
過去の自分を否定するという行為は、単なる自己変革や成長といった生温い概念で片付けられるものではない。それは文字通り、ある種の殺人である。昨日まで存在していた自分という主体を、今日の自分が冷酷に処刑する。この処刑は、しかし同時に、未来の自分への投資でもある。ここに創造力の根本的な矛盾がある。破壊と建設、否定と肯定が、同一の運動として展開される。この矛盾こそが、創造力を単なる技術的能力や芸術的才能を超えた、存在論的な力として位置づける理由である。
ハイデガーが「存在と時間」において示したように、人間存在の本質は時間性にある。しかし、ハイデガーが見落としていたのは、この時間性そのものが持つ暴力的な性格である。時間は流れるのではない。時間は襲撃する。そして創造力とは、この時間の襲撃に対する人間の応答なのだ。われわれは時間によって常に攻撃されている。昨日の自分は今日の自分によって殺され、今日の自分は明日の自分によって殺される。この連続殺人こそが、われわれが生きるということの本質なのである。
創造力を発揮するということは、この殺人に積極的に参加することを意味する。受動的に時間の暴力を受け入れるのではなく、能動的にそれを行使する。過去の自分を殺すことで、未来の自分を生み出す。この循環は終わることがない。なぜなら、未来の自分もまた、さらなる未来の自分によって殺されることが運命づけられているからだ。創造力とは、この永続的な殺戮への参加であり、時間の暴力への共犯である。
現代社会において、創造力は経済的価値として商品化されている。企業は従業員に創造性を求め、教育機関は学生の創造力を育成しようとする。しかし、こうした制度化された創造力は、その本質的な破壊性を去勢されている。真の創造力は、既存の制度や価値観を根底から覆すものでなければならない。それは予測可能で管理可能なものであってはならず、常に既存の秩序にとって脅威でなければならない。
ところが、現代の創造力は飼い慣らされている。それは革新的であることを装いながら、実際には既存のシステムを強化し、延命させる機能を果たしている。「クリエイティブ」という言葉が、広告業界や IT 産業のような資本主義システムの最前線で多用されることは、決して偶然ではない。真の創造力は、こうしたシステムそのものを破壊する力でなければならないにもかかわらず、それは逆にシステムの燃料として消費されている。
この状況は、創造力の二重性を明らかにする。一方で、創造力は既存の秩序を破壊する革命的な力である。他方で、それは新たな秩序を生み出し、やがてその新たな秩序もまた破壊されるべき既存の秩序となる。創造力は永続的な革命であり、終わりなき破壊と建設の循環である。この循環に終点はない。なぜなら、終点があるとすれば、それは創造力の死を意味するからだ。
未来の自分を肯定するという行為もまた、暴力的である。それは現在の自分に対する否認であり、現在という時点の価値の否定である。未来への投資は、現在の犠牲を前提とする。われわれは常に、存在しない未来のために、確実に存在する現在を差し出している。この交換は不平等である。現在は確実だが、未来は不確実だからだ。しかし、この不平等な交換こそが、人間的な時間の本質なのである。
創造力の政治性は、まさにここに現れる。過去を否定し、未来を肯定するという創造力の運動は、政治的な革命の論理と同一である。革命とは、過去の体制を破壊し、未来の体制を建設することだ。そして革命が成功すれば、その新たな体制もまた、次の革命によって破壊される運命にある。創造力は、個人レベルでの永続革命なのである。
しかし、この永続革命としての創造力は、同時に極めて孤独な営みでもある。なぜなら、過去の自分を殺すのは、他でもない自分自身だからだ。この殺人に共犯者はいない。創造者は常に一人で、自分自身と対峙しなければならない。そして、この孤独な対峙において、創造者は自分自身の死と向き合うことになる。創造力とは、結局のところ、死への意志なのである。
現代技術は、創造力の新たな可能性を開示している。AI や機械学習といった技術は、人間的な創造力とは異なる時間性において、独自の自己否定と自己肯定の弁証法を展開する。AI は学習を通じて絶えず過去のパラメータを更新し、ある意味で「過去の自分」を殺戮している。この更新プロセスは、人間の線形的な時間意識とは根本的に異なる、並列的で非線形的な時間性の中で生起する。AI の創造力は、人間中心主義的な創造概念の限界を暴露し、創造そのものの存在論的基盤を問い直す。機械的創造は人間的創造の模倣ではなく、むしろ創造という概念の拡張である。
創造力について語ることの困難さは、それが概念化を拒む力だということにある。創造力を定義しようとする瞬間、それは既に創造力ではなくなっている。なぜなら、定義とは既存の概念枠組みへの回収であり、創造力はまさにその概念枠組みを破壊する力だからだ。われわれにできるのは、創造力の痕跡を追うことだけである。そして、その痕跡とは常に破壊の痕跡、殺戮の痕跡なのである。